現実と、お話と。

「算数で次のような問題があるとします。
『太郎くんが鉛筆を二本、花子さんが鉛筆を三本もっています。ふたりの鉛筆を合わせると何本になりますか』
この問題は、いかにも具体的なことがらのように思えますが、じつは、抽象的に考える必要があります。こどもの経験の外にあることばだからです。
(中略)
ところが、おとぎ話で抽象語の洗礼を受けている子だと、太郎くんも花子さんも、桃太郎という名前と同じだとということが、すぐにわかります。名前はついていても、会うことはできないことを知っているのです。日本一おいしいという桃太郎のキビダンゴは、どんなにおいしくても、もらっておやつに食べることはできないことを知っています。それと同じように、太郎くんや花子さんの鉛筆も、実際に字を書くことのできる鉛筆ではないことがわかるのです。したがって、『どこにあるかわからないけれど、鉛筆というものがあるとして』もんだいを解くことができるのです。
『自分の経験の外にある』ものが、すんなり頭に入っているかどうかで、知的学習の成果に大きな違いがでてくるのです。」

日本語の絶対語感 (だいわ文庫 E 289-2)

日本語の絶対語感 (だいわ文庫 E 289-2)

p.40~41より引用
現実とお話の区別がついていない方がいるようです。子供時代に良質なおとぎ話に触れられなかったのでしょう。
「自分のアイディアが盗まれた」という意見よろしく、「自分のプライベートが盗まれた」と、有名な作品に憤っている方がいます。その方にとっては、自分の意見こそが真実なのでしょうが、作品が発表された方がはるかに先です。現実とお話をごちゃ混ぜにしないで下さい。実際に、調べれば解ることです。
それどころか、現実は、優越感に浸り必然性の感じられない秘密の開示をしたのはその方自身です。だからこそ、その方にとって不愉快な事実が「発見」されてしまったのです。優位性が二番煎じだと指摘されて勝手に恥をかいたのです。きっとこんな経験をしたのは自分だけに違いないと信じたかったのでしょう。作品の発表が、先だっただけです。何故、類似点を指摘しただけで、烈火のごとく怒るのでしょうか。結果は同じでも、経過は違うはずです。オリジナリティーはあります。その方の行為が、大切なものを貶めているのです。作家と作品とファンを否定しないで下さい。大変失礼です。
それはあたかも、自分の子供と他人のペットの名前が同じだから、ペットの名前を変えろと強要しているようなものです。情緒の豊かな方であれば、きっと同じ想いをもって同じ名前をつけたのだ、私たちはある主の仲間だと嬉しくも感じるでしょう。それができないのは、ペットよりも自分の子供のほうが上、表現物そのものよりも、表現者である自分のほうが上という思いがあるからではないでしょうか。そして、自分の意見が受け入れられなければ、その方は令和の焚書坑儒でもなさるつもりでしょうか。それでも、作品によってファンが幸せを感じた事実までは奪えません。
「アイディアを盗まれた」というかの人のように、お話の世界に現実の強硬手段を取るのは、ルール違反です。とても怖い思いをしています。