リス見た、森博嗣とパクチーは似ている。

昨日、野生のリスを見た。猫かと思ったら、リスだった。

人生二回目のパクチーにて、「これは、『薬味の再発見』だ!!」と気付く。
大抵の子供は、薬味の概念が自分の中に存在していない。ので、刺激的なねぎやわさびを毛嫌いする傾向にある。「だって、ねぎとかわさびとか、味がきついじゃん」と。大人だってそう思っている。
子供はそもそも食べられる量が少ないので、ずっと平淡な味がして飽きるということがない。まぁ、大人よりも切実に大きくなるために、ごはんをとにかく食べなければならないということもあるだろう。
で、パクチーだ。一般的に、パクチーを食べて「美味しくない」から、「美味しい」に変わる閾値が存在するらしい。パクチーそのものの味は変化しないのにである。それこそが、「薬味の再発見」なのである。「なんだ、お前、薬味だったのか。それじゃあ、パンチがある味してないと意味ないよな」と感動を伴うパクチーとの和解ができるのである。視点の変化である。
森博嗣作品における「薬味の再発見」が、四季シリーズなのである。
中学から高校に上がった時に勉強についていけないことを「高一ギャップ」という。たとえば、小学校の算数から中学の数学くらい変化が目に見えれば、当人も納得しやすいだろう。しかし、中学から高校では、見た目上の大きな変化が見られない。そして、高校入試で、同程度の成績だったはずなのに、勉強についていける者とそうでない者とに別れる。
そもそも教師や成績が優秀な者は「高一ギャップ」にすら気付いていない。それは、あえて言語化する必要もない「常識」だからである。「常識」だから、わざわざ教科書に書かない。結果、「常識」を持たない者は、教科書を読んでも心の底から物事を理解することができない。
つまり、森博嗣は「薬味の再発見」なんだな。